- 十分の一献金をしたら、天の窓が開いて祝福されるっていうお話を聞きました。この祝福って、どういうものなのでしょうか?「マラキ3:10十分の一の献げ物~によって、わたしを試してみよ~必ず~天の窓を開き祝福を限りなく注ぐ」先生のお話(↓)を聞いて、信者の方は、十分の一献金されているようです。~神様が、「試して見なさいって」いわれているのは、聖書では、このマラキ書の1ヶ所だけなのです。~でも、なにかつじつまが合っていないような気がしました。信者の方が、ほんとうに(限りなく)祝福されているのでしたら、それが、うわさになって「行列ができる教会」になっているはずだと思います。そこで、信者さんにきいてみると「信仰がないと祝福を受け取ることができない」と言われました。信仰は「子供が、ちょうだいをするときにさしだす手」のようなものと聞いておりましたので、そうなのかなあって思いました。ところが、旧約とか新約とかは、翻訳の新旧ではなく、契約の新旧の事をいうそうなので、十分の一献金も契約に含まれるということですよね。これは、楽天市場とかで、福袋を注文して、1万円を銀行から振り込んだのに、品物が届かないので、電話をして、「どうして、福袋が届かないのですか」って聞いたみると、「あなたは、自分が福袋を受け取れると信じていなかったからです」って答えているのに似ていると思います。十分の一献金も契約に含まれるのであれば、俗世間でさえも「お互いに相手方の信頼を裏切らないようにする(信義誠実の原則)」があるのに、教会って、世間並みということなのかなあって思っていると、別の先生が、「天の窓が開いて祝福される」ということは、実際に何かを受け取れることではありません。この祝福というのは、霊的なものなのです」と言われていました。それなら、「祝福された本人にしか解からない神秘的なもの」なので、そういうものかと思いました。ところが、アブラハムの受けた祝福とは、なんか違うような気がします。アブラハムの「年寄りの僕」が、息子イサクのお嫁さんをもらいに、親戚のラバンのところに行ったときに「創世24:35主が~大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀~などをお与えになったので、主人は裕福になりました。」と言っています。これって、「祝福された本人にしか解からない神秘的なもの」ではなくて、「年寄りの僕」は見えていたものでしたし、信者でない親戚のラバンにも、説明しなくてもすぐに解かる物でしたよね。「霊的なもの」と違うような気がします。十分の一献金をした人が、もらえる「天の窓が開いて祝福される」っていう祝福って、どうゆうものなのでしょうか。?
牧師が喜ぶだけの話です・・・・すべてを持って統治している神がなぜお金を持って捧げる必要があるのか?捧げるのは信仰者の心でしょうね。これが本当の信仰というものでしょう。単に十一献金すればいいと言うのは逃げてるだけでしょうね。私出来てませんけどね。それに「二人又は三人が心を一つにして祈る」(マタイによる福音書18:18?20)というのがテーマですね。新約聖書には十一献金に関して明記してないですけど・・単に月の初めに用意しろいう指示あるようですが・・聖書はただ一節から抜いてじゃなく聖書全体から何を説明しているのかを考えていかないと整合性がなくなってきますね。
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